みんなそれぞれ、頑張っている。
世界的に有名な歌手のレディー・ガガさんが、線維筋痛症を患っていることを公表しました。
わたしの持病でもあるこの線維筋痛症、多くの人たちが初めて聞いた病気かもしれません。
多くの同病の患者さんたちが説明したり、ニュースでも多く取り上げられてますので、今回は病気についての説明をする、ということをあえてわたしはしません。
そういうことはもうたくさんの情報が出溢れかえっているので。
でも。病気がある人が特別に「頑張っている」とか、「かわいそう」とか、そんなことはないってことだけは言いたい。
わたしは病気持ちですが、そりゃ不便はあります。まあ健康な時に経験することはない経験や症状や困ったことは溢れてます。でも、それはうまく工夫したりすれば付き合っていけることもあったりするのです。工夫はいるけど「健康な人より頑張っている」という認識はありません。
だって、健康な人もそれぞれ頑張っているのに、なんでこちらだけが特別になるのでしょう。
仕事に人間関係に、毎日の生活に、それぞれ頑張っているでしょ、と思うのですよ。
誰が一番辛いとか大変とかそういう話は、あまり好きでないのですよ。
みんなそれぞれ悩んで大変で、不安で、辛いことも、苦しいこともあって。
わたしはたまたま病気がそれを占めてるけれど、健康な人だって他のことで、それこそわたしがあまり悩まないことで悩んでいるだろうって。
だから同情の眼差しを向けないで欲しい、と思うのですよ。
勿論、まあ人より大変な場面は多く見えるかもしれないのだけど、そんな時は助けてくれたらそれでいい。わたしも他の人が大変だったり辛かったり苦しかったりしたら手を差し伸べたい。
それは病気だとか関係ないことなんじゃないな。って話ですよ。
病気があるからの苦労があるように他の人だって仕事してるならその苦労もあるし、学校に行ってるならその苦労もあるし、と。
誰が一番とかそんなの全然楽しくない。平和じゃない。
同情の目っていうのは、かわいそうだという目というのは全然、対等じゃないんじゃないかと。
みんな頑張ってるのだからそれを認められるだけの人間でありたいし、そんな社会になって欲しいのですよねぇ、夢見すぎかしら、なんて思いつつ、まあせめて自分はそうありたいなと。そういうふうに改めて思ったり。
みんなそれぞれ、頑張っている、それだけの話なのになあと。
かわいそうとか言われたくないなあ。
社会に出るって大変だ。
さて。まずは。ご報告から。
【速報】身体障害者手帳、剥奪可能レベルまで回復したっぽいっていう診断書もらった⸜(* ॑꒳ ॑* )⸝
— 佑 (@yuimarl_miffy) 2017年8月30日
回復(痛みが悪化してるけど)(動けるようになったので)(障害者とは言えません)
— 佑 (@yuimarl_miffy) 2017年8月30日
という感じであったのだけど、
見事に届いた書類は
「再交付します」でした。
【速報】身体障害者手帳、引き続き手帳交付されることが決定されたので、健常者扱いになりませんでした(等級不明)(今郵便届いた)
— 佑 (@yuimarl_miffy) 2017年9月16日
と、思わずこんなツイートをしてしまうほどで。
まあとりあえずもうしばらくは障害者手帳のお世話になることになりました。2年期限付き。
身体、肢体不自由で等級は5級。障害名は前回と同じく「筋力低下による両上下肢機能障害」。以前は3級でしたが今回は5級ということで、回復はしていると社会的にも言われたようで嬉しくもなりました。
さて、ずっと考えていたことがあったのです。
この手帳の判定がでたら、どういう結果でも働こうと思ってました。
わたし自身は今のところ通信制での大学生ですし、実家暮らし、病院代などの治療費は二十歳前障害による障害基礎年金が僅かな額ですがおりてるのでなんとかなってます。
しかし、この障害基礎年金、わたしの場合はあと一年ほどで更新が来るのですよね。そして多分止まります。就労が確実に不可、とまではいきませんし。まああと家の経済状況だとか、自分の体の状態だとか、社会との関わり方への考えだとか、勉強してきたりなんだりしてきて思ったこととか、要因は色々あるのですが。とにかく社会に出て良いと言われるのなら、働きに出たいなと。
そんなこんなで主治医にお伺いを立てたのです。
「働きたいんです」と。
四月に聞いたときは即答で却下されたのですよね。
今回は「職種、働く時間、病気への配慮があるのならよい」とされました。はい。
ということで障害者雇用でなおかつ事務系の職種、さらには最初はパート(アルバイト)で、という風に絞られました。しかも週4以内で働くことができる場所。
さらに、求人に応募する前に先に主治医に見せるという約束付き。
本当ならフルタイムで働けるだけの体力はあるのかもしれないのですが、なにぶん働くこと自体がほぼ未経験状態、しかも神経を酷使しすぎると倒れてしまうほどの神経負荷がかかりやすい病状で、一応線維筋痛症患者としては重度、痛みレベルはもうなんというか、その、半年前の時点で「こんな数値見たことない」とまで言わせてしまったかんじでして。(ペインビジョンという痛みの検査がありまして。はい。その数値がぶっ飛んでいる。そのうち記事書くけれど、とにかくめっちゃいてえ。ってかんじ)
自分が思うよりもわたしの体ってちょっと大変らしく、少しずつ、慣らさないと神経がばーん!ってなるようなので、主治医の指示に従うのはこの先働くためにも大切だろうな、と。ここで無茶苦茶やって倒れるわけにもいきません。
だからまずはノットフルタイム!週4以内のお仕事!を探すことに。
そして、障害者雇用、ということで、ハローワーク行ってきましたよ、はい!
ああもう、緊張しました。ハローワーク。
求職者登録のときは障害者なので、障害内容、病状についても登録をしたり。主治医からの指示も登録してもらい、どんな職種ならできるかだとかは勿論、何を配慮してもらやなくてはならないかも登録してもらいます。
障害者、難病患者にはそれ用の窓口があってそこの窓口の方とはなしつつ、必要なことの登録したんですよね。
ネガティヴイメージなハローワークでしたが、少なくともわたしの行ったハローワークの障害者窓口の方々はふわふわした方達でした。明るい方も多くてとてもやりやすかったです、ありがたやー。
登録が終わったら求人チェックして、条件が合うところを必死に探します。はい。
障害者雇用の求人は2つにわけられていて、一つは事務職、もう一つはその他。事務職の方チェック開始ー!
と、事務職の方を開いたらすごかった。
さすが、障害者雇用、誰もが知ってるであろう大手の企業の名前がずらーーーっとならんでました。
わたしの住んでいる、ここ、東北の地方都市なのに。そこの支社勤務固定転勤なし正社員だとか、希望者は本社いけますとか。パートもフルタイムも知ってる企業がずらっと。うわー、すごいなあ。こういう企業に入る人って雲の上みたい、なんて思うくらいのところがたくさんです。
さて、求人情報をみていると、学歴だとか、経験だとか、資格だとかも不問のところは多いものの、わたしの場合まず「パートタイマー」「週4くらい」なのでとりあえずそこだけに絞って探します。
通勤できる距離を考えてさらにしぼり、仕事内容をかんがえて、とやると、2、3件当てはまるところが見つかりました。
そして次の通院時に主治医に見せまして。
「先生、この辺で考えてたのですが、どうでしょう…」「えっまあいいんじゃない!がんばれー!」と言われたので第一志望のところの求人紹介をお願いし、履歴書かきかき。
(履歴書5回間違えました)
(学歴のところの留年!休学!理由は病気療養!はしっかりかきましょう。サボってないよ!のアピールは必要なのだそうです)
(病気療養してたけど今は大丈夫だよ!!働けるよ!でも通院はしてるよ!!通院日は毎週だよ!!因みに通院は業務時間外にできるよ!!!とかもあるならしっかりかきましょう。大事な情報です。このあたりの話もまた後日書きます。)
とにもかくにも。
本日履歴書を投函してきました!
主治医に働いていいよと言われてから2週間ちょっと。なんだかワタワタと。勢いだけに任せてやってきました。
なにぶん、病気持ち!高校留年!休学!退学!バイト経験なし!体力なし!!社会人経験なし!!しかも今23歳!!!現在毎週通院中!!一度寝たきりになりましたが今はもう脱却しました!!!!なわたしです。
これだけ見ると自分で書いてても「あっやべえ、わたしが人事部ならとらなさそう」ってくらいの経歴です。はい。
履歴書だとかを読んで安心してもらえる要素は盛り込んでいかなくては面接にもまず落ちる。
しかも普通ならしないであろう、留年休学中途退学(理由全て病気)進学したのは通信制大学(病気のため)なんていう文字列オンパレードですから。
書類で伝えられる情報は伝えることが病気持ち、殊に障害者雇用なら重要であるとのことです。当たり前ですが、「企業側だって後でごちゃごちゃめんどくさいトラブルだとかにはなりたくない」に決まってる。
因みに今回応募したところ、現在ハローワーク通して応募した方々はみんな書類選考で落ちて面接さえたどり着いてないんですよね、と言われましたね。
なにそれ怖い。わたし通らないんじゃない?!?!とか思いつつも、まあでも、まずは当たるだけ当たらないと開かれる道も開かない。
天佑は勇者にこそ訪れるのですから。
と!に!か!く!!!!
面接に辿り着かなければまた次応募!めげない!前に進むぞ!!と。
ポジティブ人間メンタルを発揮していきます。
くわしいお話はまた今度。きっときっと、うまくいく。前に進もう。
最後にこれだけ言わせて。
「社会に出るって大変だ。」
好きなら相手の全てを許せるのか
人間が好きです。前々からそういうことを話して、わたしの周囲の人はわたしが人間が好きなのをよく知っているのですけれど。
そういえば、こういうツイートをしたんです、わたし。
悪いところを指摘するのと、その人間を否定することは全然違う。前者は尊敬や愛情や、その人への思いやりがあるけど、後者は寧ろその人への尊敬も何もない。
— 佑 (@yuimarl_miffy) 2017年9月9日
わたしっていう人間が嫌いならそれはそれでいいし、わたしはわたしでしあわせに生きるからあなたもしあわせに別のところで生きてほしい。わざわざ刃を向けるのはお互いいい気持ちしないと思う。わたしはわたしを大事にする人とわたしが大事にしたい人を大切に生きたい。
— 佑 (@yuimarl_miffy) 2017年9月9日
気に入らない人をとことん貶したり蔑むくらいなら、好きな人たちのためにエネルギー使う方がずっと生きててしあわせだと思うの。
— 佑 (@yuimarl_miffy) 2017年9月9日
ですから今日もわたしはしあわせに生きる方を選ぶんですよ。たのしくて、すてきで、満ち足りた時間を過ごすための選択をするんですよ。ふふーん。
— 佑 (@yuimarl_miffy) 2017年9月9日
だからちょっと、人間が好きで、人との関わりをわたしが好きな中で生きてる考えを書いておこう。
わたしが人間好きなんだなと自覚したのは、病気で学校を休んだときでした。それも、入院ではなく、自宅療養したとき。
中学一年の秋、線維筋痛症を発症して、痛みに悶えて動けず、訳もわからず21日間入院をしたのです。
幼い頃から、よく入退院をしていたのです。喘息や肺炎が重症化しやすい体で、入退院を何度となく繰り返していたから、病棟での暮らし方は勝手がわかっていました。小児科病棟は、年齢に幅がある。赤ちゃんからそのお母さんや医師たちと言った大人までがいる場所ですよ。同じ病室で、生後間もない赤ちゃんから、その付き添いのお母さんまでが一緒に生活しているのです。入院をしているという意味では赤ちゃんから高校生くらいまでがそこにいます。
中学生のわたしにとっては、小学生や幼稚園児の同室の子や、赤ちゃん、高校生くらいまでの人と、1日数回とは言え、関わりがあるのは寂しくなかった。
それぞれつらい病気や症状に悩まされたり、将来のことへの不安はあるにせよ、他愛ない会話をしたりするし、看護師さんや医師との会話は、人との関わりを持たせてくれていて、その入院期間をものすごくさみしいとはしなかった。たまに顔を見せてくれる家族にも救われた。
しかし退院して、うきうきと次の日学校に行ってもすぐに行けなくなりました。
痛みなんてものはわたしの意志とは関係なくひどく襲ってくるのですよね。まあ病気なのでそりゃそうだとも思います。
そして気がついたら1週間2週間…と休むことになりまして。
2週間自宅で療養したところで、人に関わらなくて干からびそうだと思ったのです。家族とは仲良くて、毎日関わりを持っていても、さすがに苦しくなりました。このとき初めて「アァ、私は人間大好きなんだな」と。
高校に入り、病気のために留年して通信制へ転学をするかしないかということになっても「人と会えるかどうか」は重要でした。
「人に会わない選択をしたら確実に干からびる」と本気で思うくらい人間が好きらしい。
でも、好きなら相手の全てを許せるのか。
どんなに、わたしは相手が好きだとかいっても相手を何でもかんでも許せるとかそういうわけでもない。人間が好きであるということは=寛大である、というわけでもない。
相手がいう全てを肯定できるかというわけでもない。傷ついて傷つけてということは、いくら相手が好きだとしても、その部分を「好きだから」なかったことにできるほど人間の心は単純でもないのです。
相手も、わたしにとって何でもかんでも都合いい人間になんてなれっこない。人間ですから。
悪いところもいいところも、人間は時と場合で紙一重なところがあるんだなあと思って生きてきました。
悪いところや嫌なところ、どんなに好きな相手でも目に入ることがあります。
家族でも、友人でも、もちろん恋人でも。
わたしは悪いとことか嫌なところも含めてその人だと思っている。
だから、たまにそういうところに目がいってもそんなことを上回るほどのいいところを、知っていると、それだけのいいところに目を向けていくようにしています。
勿論、人間的に合わない人、自分と相手にとってお互いのためにならない人、そして自分が嫌いな相手もいます。全員に好かれることも、全員を好きになることも、不可能です。絶対に。聖人君子になんてなれません。そういうかた、きっと人間じゃない。ゼッタイ。
だったらそういうあいてがいる時どうするかって話です。
その相手を貶したり蔑んだり、陥れたくなるような気持ちはあったとしても、そこにエネルギーを使うくらいなら、自分を大切にしてくれる、愛してくれる、そして自分が大切に思う相手のためにエネルギーを使いたいと願ってます。
自分と合わない相手、わたしを嫌いな相手や、わたしが嫌いな相手は、無理に関わることなく、わたしはわたしで幸せになりたい。相手も相手でわたしの知らないところで幸せになっててほしい。
お互い不幸になる選択なんて、悲しいし、とっても無駄。そんな選択をして誰も得をしないし誰も満ち足りた気持ちになんてならない。
そんなことを思うのですよね。
まあわたしが今回言いたいことって
「どんなに人間好きでも嫌いな相手も合わない相手もいるし、わたしのことが嫌いな人間もいるのは普通。そういう相手へのエネルギーは自分の大好きな人や大切な人に使いたいしそうやって生きてるとわたしは幸せだなと思ってる」ってことで。
人間好きでも全部許して誰とでも仲良くできるわけではないから、うまい立ち回りと生き方を身に付けたなってことを記しておきたかったってだけです。
毎日楽しくしあわせにー!今日も満ち足りた時間を!って。
悩みも不安も悲しさも生きていればあるし、
人間関係の悩みなんてたくさんあるけれど、
しあわせに生きるために、うまくやっていきたいです。
フルーツピークスのフルーツジャー
仙台PARCO2 4階にフルーツピークスというおみせがあります。
名前の通り果物をウリにしてるお店でして。
こちらには、フルーツジャーがあります。
フルーツジャーとは、
メイソンジャーに好きな果物をつめ放題!というもの。
その時期の旬のフルーツのほかに、こちらではシャンティ(生クリーム)、グラノーラ、ヨーグルト、ジャム、ゼリーなどもトッピングできます。
ということで。
やってきました!!!
今回は、お腹が空いていたので、フルーツジャーのスイーツセット(シフォンケーキ)を注文。
シフォンケーキ、フルーツジャー一回、フルーツデトックスウォーター2種類飲み放題、温製フルーツスープ飲み放題、コーヒー(or紅茶)
これで 1280円(税込)
まずシフォンケーキ!
シフォンケーキ自体はふわふわー!ほわほわー!でした!
バニラアイス、しっかりバニラの味。
おいしかったー!
あとチョコレートソースがこのシフォンケーキの下にもしかれていて、からもおいしかった。
お皿も冷えててアイスクリームが溶けにくいようです。
ちなみにこの日の温製フルーツスープは
スイカのスープ
スイカ?スイカをスープにするの?ってなりつつもらってきました。
あっ、スイカの種入ってる。あっ、スイカ。スイカ入ってるぞ。
なんて思いながら飲んでみましたら…あ、これ美味しいです、とても。おいしいです。
スープです。パンとかに合うような味。
コンソメの味と、あとスイカのほんのり甘いような。おいしかった。
考えてみたら、スイカって西瓜って書くくらいですし。
うり、なんですよね。そりゃスープにしたらおいしいですよね。
スイカは野菜ですよね、確か。なるほどスープ。
新しい発見でした!
さてさてー!
本命のフルーツジャーのはなしを。
この日は、ブルーベリー、りんご、パイナップル、キウイフルーツ、バナナ、メロン、オレンジ、グレープフルーツ、すいか、ももなどがありまして。
シャンティとか、ゼリーとか間に入れたり、フルーツの大きさみながら途中でグラノーラいれたり…
メロンは大きさが2種類ありました。
とにかく、詰め込む時にどれを入ればいいのか考えながら入れないと、たくさん果物が詰め込めないんですね。はい。メイソンジャーを傾けてみたりなんだりしながらつめました。
不器用さ発揮されて大変でした、わたしは。
同じ時間帯にいた大学生らしきカップルさんは彼女さんが「インスタ映えさせる!!」とあれこれつめて本気モードでしたね。すごかった。これでもかとうまくつめてて隙間なく綺麗につめてました。天才かなって思いました。すごい。女の子の力すごい。インスタ映え!と公言しながら詰めてる女の子の本気具合を見せられて、つめきった時の笑顔、満足!!っていう感じでした。
因みに彼氏さんはひたすらブルーベリーだけ詰めてました、一種類だけとかを詰め込むのもありなので好きな果物とことん食べたい人はそれでもよいかも。
さてわたしは、好きなパイナップルをいれて、今年まだ食べてなかったなぁとスイカをいれて、あとメロンが食べたい!とメロンをつめて…
どーん!
はい!できました!はい!!!
果物屋さんがそもそも経営してるお店ですので、果物どれを選んでも絶品です。
パイナップルも舌がピリピリしないくらいあまかったー!
しあわせ!!
果物一日200グラムが必要と言われてるそうですが、だいたいそれくらい摂取できてしまうんだとか。
食べてたらどんどんお腹にたまりました。
食べきる頃には、「あー、よくたべた!!!しばらく果物いらないかもしれない!幸せ!!美味しかった!!」と。
果物だけでもお腹いっぱいです。
因みに、フルーツジャーと飲み放題温製フルーツスープのセットだと980円。
これだけの質で、これだけの果物を980円でたべられるならお得ではないかと思いました。
果物好きな方は是非訪れてほしいなあと思います。
フルーツピークス、仙台でのフルーツジャーについでのホームページはこちら。
努力すること頑張ること、無理をすること。
努力するとか頑張るとかという言葉をよく使います。
でも同時に無理をしない、という言葉も使います。
努力することや何かを頑張ることと、無理をしないということのちがい、なんなんだろうとときたま思うのです。
努力や頑張るということは、少なからず大変なことが多いかな、と思います。
スポーツでも勉強でも、なんであれ、努力する時にはどんなに楽しいことでも反復練習だったり、苦しいなあと思うことだったりつきまとうのは否めないかもなと。
でもそれは「無理をする」とは違うのではないかと思うのです。
無理をするって、心であれ体であれ、いつか壊れてしまうラインを超えたことなのかもしれません。
もう限界だってところを超えてやってしまう。オーバーワーク。
お仕事だったりするオーバーワークしないといけないとか、そんな声はあるし、働くといえことになったら、そんなこと言ってられないのも一理あるとは思います。
でもその結果、体や心が壊れたら、何が起きるか、そこが大きいかなと。
一年ほど前まで、わたしはよく失神をしていました。突然意識がなくなって、ぱったりと。
病気の痛みと自分の体力や病気での神経の疲労を考えずに動いてたのです。
体を酷使していたのですよね。当時はそんな認識皆無でした。
いきなり倒れるという恐怖からも、意識があるときに動きたいと思ってました。
痛いのはもう平常化していましたし、激痛でよく動けるなあと検査すれば言われるレベルですし、だからこそ痛みの中でも動ける時は動きたかったんです。
またいつ動けなくなるかわからないとか、そういう気持ちも大きかった。心が疲れてたかと言われたら、痛みの不安とか恐怖とかはあったし、たぶん常に神経を張り詰めていて、きっと疲れていました。勿論無自覚でした。
無理をしているときは自覚がないんでしょう。
他の人は倒れないとか、これくらいなら大丈夫とか。
そういうことも重なれば、「自分がどの頻度で、どの程度休息すればよいか」のラインもわからずに動くようになってしまう。
これが「無理をする」ことなんだと思うのです。
結果的に無理をしていた自覚さえなかったわたしは、動けばすぐ失神する、を繰り返して、何かするのも難しくて、一時期は寝たきりまでいきました。病気で落ちた体力だとか、自分の限界だとか、全く省みないで行動していたというのも大きな要因です。
今はというと殆ど失神することなく動けています。
一人で新幹線に乗って遠出もできますし、以前は必ず付き添いが必要だった通院も一人でこなしますし、毎週のリハビリもきちんと行えてます。一日中ベッドの上ということも殆どないです。
病気が軽くなったかと聞かれたら病気は悪化しています。痛みが酷くなっているのは検査で判明してますし、神経の過敏さだとかの悪化もよく実感しています。体力も他の人たちよりずっとずっと、すくないです。
でも、生活を変えました。
主治医に「あなたは無自覚でも無理をしている」と言われたのがきっかけでした。
投薬の治療は変化せずに行い、まずは生活の記録をつけ、次にどれほど自分が動いていて、どういう時に限界がきて失神してたかを把握することからはじめました。自分がどれだけ自分に合わないやり方で努力のつもりの無理をしてたかを認識して、主治医たちと相談しました。
そこからどのタイミングでどれくらい休むかを必死に模索して、今では他の人より早く休憩をとる、長めに休む、横になる、ということを自分に合うように行うことで失神は激減してます。
つまりは無茶苦茶なことをすれば、自分にとっての体や心にとって「無理をする」ようなことをすれば、簡単に人は倒れてしまう、のかもしれないと思うのです。
とはいえ、わたしも未だに無理をしてしまうことはありますし、塩梅というのは難しいです。
努力と頑張ることは大切だけれど、無理をしているかどうかの見極めは必要なのかなって。
いやしかし、無理をしているんじゃないかと他人に言われたらおとなしく自分を見直すだけの余裕はもちたいとおもうのでした。
おいしいはしあわせ。
ごはんを作るという行為がすきです。
しかし、ここ数年、料理らしい料理から離れてました。高校一年生の時の調理実習から、今年の3月まで包丁も持つこともなく過ごしてきました。
痛みの病気というのは実に厄介なことに、わたしの場合負荷をかけると痛みが強まりますし、それに限った話ではなく、痛みで鍋やフライパンを持つのに勇気がいる。
さらに言えば普段の痛みよりさらに強い痛みが突然やってきた時に、包丁や鍋を落としてしまって怪我をしてしまうリスクがあったりということもあって、痛みがひどくなってきてから離れていたのです。
とはいえ、これから先ずっと料理をしないというのも無理な話だなぁと思い、主治医に相談しました。そこで料理をリハビリがてら再開して、もう5ヶ月ほど経ちました。
ごはんを作るって、すこし手間はかかるけれどいいリハビリになるのです。
最近はごはんを作るのがとてもすきで、たのしい。
なにを作ろうと考えてる時間も、レシピを眺めているのも、スーパーで食材を見ている時も、包丁で切ったり、煮たり焼いたりの過程も、わたしにはとてもたのしくてしあわせな時間。
誰かにごはんを食べてもらって、おいしいといわれるのはしあわせなことだし、一緒にごはんを食べるという時間って愛おしいものだなとも思うわけです。
勿論一人での食事もすきですし、外食もたのしいと思うのですよ。
なんであれ、ごはんの時間は尊いと思ったり。
おいしいはしあわせなことです。
わたしは特段料理が得意なわけでもないし、病気のこともあって、料理でもできることが限られます。
それでも料理が楽しいと思えるのは母がうまくやり方を工夫して料理をするのをみていたからでしょうか。
母も病気を持っていまして、簡単でおいしく作れる工夫をたくさん持っている、というように思うことがたくさんあります。
そんなわたしの母が教えてくれた料理で特に好きなのはオリーブチキン。とても簡単、おいしい。しかし割と知らない人も多いそうで、作り方をよくきかれるのですよね。
おいしいので広まれ!ということで。はい。レシピでもそのうち載せようかなーと思ってます。
しかし料理をよくするようになって、ふと、得意料理を言えるまでになりたいなと思うことも増えました。以前はそんなことなかったのに。
そこそこのレパートリーはあるものの、これは得意ですと胸を張って言えるような料理はあったかしらとよく思うのです。
ハンバーグ、肉じゃが、トマト煮、そぼろ、餃子、肉団子、三色丼、あさりの酒蒸し、ジャーマンポテト、オリーブチキン、春巻き、青椒肉絲…とまああれこれ作ってきたものを思い浮かべるものの、んー、なんというか、これは自信あるよ!!というものが見当たらない。
今はなんというか、料理することを楽しんでる節が強い。
それで、作ったものがおいしいと人に言われるのはしあわせで、また同じようにおいしいと思ってもらえる料理を作るというのはなんとも高度な技なんだろう、とも思うのです。
得意料理をあげられるまで料理をしていきたいなぁと思うけれど、その域まであとどれくらいかかるのかなとも思います。
今のところ唯一自信があるといってもいいものはさっき言ったオリーブチキンでしょうか。それだけはまあ、失敗したことはないですし。でも得意料理とも違うような。
それにしても、自分が作った料理を、家族や友人が口にした時、おいしいと笑ってくれるのを見ると、あぁ、つくってよかったなって心底思う。また料理作りたいなと思います。
社会にはおいしいと伝えるのが苦手な人もいるみたいですが、おいしいとき、にっこり幸せそうにしてくれてたら作った側はまた頑張りたくなるものなのかもしれません。
あと、ごはん作った時にアドバイスくれたりこういう方が好みとか言ってくれる人もわたし個人的には嬉しいなーと思います。その人それぞれで好みって違いますし、家ごとに少し変わってたりします。
例えば肉じゃがは牛肉派か豚肉派か、はたまたにんじんを入れるか入れないか。とか、家ごとに違うこともあったりするのですよね。
「おいしい」と言ってくれたうえでのアドバイスも、「これこうした方がもっとおいしいと思う」とか。そういうのは参考になるので、作るときにあれこれ試して、あ、これ自分も好きだなあと思う味ができたりする発見はありがたいです。
そして、ごはんを作るようになって、Twitterなどで写真をあげるようになりました。元々はわたし自身の記録とモチベーション維持のためでしたが、いろんな人に反応貰うようになりました。
Twitterでも料理が好きという方たちがおいしいレシピを教えてくれるようになったり、こうすると楽だよということを教えてくれたり、このごはんはどう作ってるの?ときいてくれたりと、今までのつながりでも会話の内容が幅が出ました。
ごはんって偉大だな…みんなごはんだいすきなのですよねきっと。
食事という行為は生きるために外せない行為です。
だからこそ、義務的ではなくて楽しんで食事ができるのは素敵なことだと思います。
折角なら、しあわせな時を過ごしたいものだなとつくづく思うのでした。
幸せがなにかなんてわたしにははっきりと答えられないし、自分は幸せだなあと思うことはたくさんあるけれど、正直言って、何故そう感じてるのかなんてさっぱり。それでも、ごはん食べてる時とか、誰かが幸せそうにしているのを見るとほっとして、幸せだなぁとしみじみ思う。
— 佑/レポートチャレンジ。 (@yuimarl_miffy) 2017年8月19日
足が攣りそうなくらいの全力の爪先立ち
気がついたら2017年の夏でした。
世間はオリンピックまであと3年を切ったとか、今年は記録的な暑さだとか、甲子園が始まったとか、台風が猛威を振るったとか、そんな話が騒がれてます。
わたしはこうして新しくブログを書き始めてます。
暑い、2017年、8月。
23歳、女子大学生2年目の夏。
以前は違うところで2013年からざざーっとたまにブログを書いてました。いや、始めたのはもっと前で、一度リセットかけて記事があったのが1番古くて2013年4月だったんですね。
当時は女子高校生だったのですよ。19歳になる年で、持病の線維筋痛症…これ、神経の誤作動でとにかく体が痛い病気とでも覚えてもらえればいいかしら。とにかく、その治療を始めてからまだ数ヶ月で。
2度目の留年を決めた、そんな時で、まだ全日制の地元の進学校と言われるような高校にいて。治療もう少し頑張りたくて休学を決意して、みたいな時期だったようでした。
そのブログは高校を変えたり、少し働いてみたり、痛みによる様々な障害を認定されたり、寝たきりになったり、 病院を変えたり、リハビリ始めたり、将来何になればいいのかを悩んでいたり、高校を卒業したり、大学生になったり、好きなアーティストのライブに行ったり、ボランティアを始めたり、四年の歳月を幼い文章で綴られてました。4年間で75の記事がありました。それらの記事のほとんどは6年間やった高校生の後半時に綴られたもので、普通なら高校生ではない時期にも病欠による留年だとかで高校生をしている自分が綴ったもので。
読み返しているうちに、それらとさようならをしたくなりまして。
いや、ブログをそのままにして、綴るのもいいかもしれない、幼かったあのころを残して、「記録」しておいたままにしててもいいかもしれない。わざわざ変える必要もないかもしれない。そんな気持ちもあったのだけれど、古い記事も全部消して、そこのブログも閉鎖してしまって、「記録」は消してしまおうと思ったのです。
単純にわたし自身が、過去に綴ったそれらを読んでいて、恥ずかしかったのはあると思います。
けれど、恥ずかしかったその理由は所謂「黒歴史」というものとはちょっと違ったのです。
19歳になる年から始めたブログ、高校生の頃の自分は、大人になりたくて、世界を見たくて、自分の現実と夢とに挟まれていたのが伝わってくるような感じでした。
2016年の11月ごろまでの記事、読んでいると、病気を受け入れてるフリをしていた。自分の現実、どうにもならないようなこと、この持病で学校を休むしかなくて起きた、留年とか休学とか当時は苦しかった転学も、とにかく平気な顔をしていた。実際はどうだったか覚えていないが、あの頃の自分は本当は平気なんかじゃなかったんだろうなと強く確信を持って言える。
ひたすら自分に言い聞かせるような話の書き方だったのです。当時はそんなこと思ってもなかったけれど。
今になれば、留年も休学も、転学も、全部後悔もしていないし、いい選択をしたと心から思っています。
言い聞かせたわけでもなんでもなく、素直に、ここまでの選択を認められる。間違っていたのか正しかったのかわからないけれども。
かつての自分は「大丈夫」だと必死に思い込みたかったのは、胸がヒリヒリと痛むくらいわかる。これが、この選択が吉と出るかなんてわからないのに、必死に正しいんだと言いたかったんでしょう。
今のわたしからしたら、あの頃のわたしは、足が攣りそうなくらいの全力の爪先立ちで生きてるみたい。
現実を見ているようで夢を見ていたんじゃないのかと言いたくなります。
世の中にはどうしようもないことってたくさんあったりするわけで、それは病気や事故や、人との死別や天災、と様々な形があるにしても、どんな人にも襲ってくる。しかし、そういうものだとわかっていても、人間というものは、いざ襲われると戸惑うし、覚悟を決めていたようで決まっていなかったりするようです。
全ての人間がそうだとは思わないけれど、厳しい現実を受け入れる、というのは容易くできなかったりするらしい。
予測できていても、対策を講じだとしてもどうにもできないような、できる限りのことをしていたのに襲ってくるような厳しい現実なら尚更。
わたしの場合は持病で、まあちょっと厄介で多くの人が聞きなれないであろう線維筋痛症というものがそうだったわけです。
それによって起きた留年だとかは仕方がないとわかっていても、少なくともまだ20歳にもならない、将来への不安だとかとうまく向き合えているとは言えないような多感な高校生にとって、そう割り切れるわけもなかった。
すんなり心に落とせるような話でもなかったりするのに、幼かったわたしは自分が割り切れていないことすら認めたくなかったみたいでした。
そんな認めたくない心や理不尽さや不条理さ、落ち着かない固まってしまった凍った感覚は時間とともにゆっくり溶けて、消化されて、自分の糧になっていくものなのか、なんなのか、今は、当時の自分を幼いなあと思います。あと、無理に大人になろうとしてたことを、素直に笑うことはできるようになっている。
だからこそ、記録として残していたくはなかった。
自分のそういう幼いところも認められるように少しだけなったし、以前は大人のフリをしていたかったけれど、「大人になりたい」と言えるようになったのも事実だから。
人がいうより自分がわがままなのも、相当めんどくさい性格なのも前よりずっと知っている。
治らないようなひたすら痛い病気を持っているとか、杖を使って歩くという現実もすとんと胸に落ちている。恥ずかしいとはこれまでも一度だって思ったことはなかったけれど、案外、自分自身で肯定できているかどうかとなると違っていた。
わざわざ記録を残してそれを見て自分の現実を受け入れようと言い続けることもしなくなったことに気がついた。少しだけ、等身大の自分を許してあげられるようになった分、かつてのわたしの記録はいらなくて「記憶」にだけ残しておこうと思ったのでした。
高校生の頃の不安は、今でも全てなくなってるわけではないし、現実の厳しさなんてそうそう変わらないものです。
わたし自身の痛みはどんどん強くなっているし、相変わらず数年前、まだ高校生であった自分と同じように将来、社会に出ていけるのかなとふと思うことも、不安で夜中に泣くこともある。
現実的な話でいえば、痛みで意識が朦朧としたり、失神したりもなくなったわけでもないし、毎日薬も飲んでいる。
ただいま、23歳通信制大学2年生。気圧に勝つのが1000年早いと主治医に言われる線維筋痛症患者。
こんな現実だって、すこし前のわたしにしたら、それだけできっと不安の塊だったことも気がつかなかったんでしょう。
大きく成長したかってきかれたら、即答できます。「それはない。」
だけど、すこしだけ。ほんのすこしだけ。
過去の自分を受け入れられるようになったのは認めたいところですね。
あの頃自分を騙すようにして綴ったものとはサヨウナラしてしまいましょう。
そんなこんなでブログ、新しくなりました。
過去の自分は今の自分を形作るから、大切に思うけれど記録を残しておくのと、記憶に留めておくのとでは違う気がした。
— 佑/今日は授業やすみます。 (@yuimarl_miffy) 2017年8月8日
本当は背伸びしなくても歩いていける世界にいるのだから、不安も寂しさも、楽しさもしあわせも、そういうもの全部を、 認めて生きていけるようになりたいものです。
そんな簡単なことこそ案外難しいものなのだろうな、とつくづく感じますけれど、努力はしていきたいですね。