佑ごはんの時間。

気圧が天敵な新米主婦のごはんと生活。

努力すること頑張ること、無理をすること。

 

努力するとか頑張るとかという言葉をよく使います。

でも同時に無理をしない、という言葉も使います。

 

努力することや何かを頑張ることと、無理をしないということのちがい、なんなんだろうとときたま思うのです。

 

努力や頑張るということは、少なからず大変なことが多いかな、と思います。

スポーツでも勉強でも、なんであれ、努力する時にはどんなに楽しいことでも反復練習だったり、苦しいなあと思うことだったりつきまとうのは否めないかもなと。

でもそれは「無理をする」とは違うのではないかと思うのです。

 

無理をするって、心であれ体であれ、いつか壊れてしまうラインを超えたことなのかもしれません。

もう限界だってところを超えてやってしまう。オーバーワーク。

お仕事だったりするオーバーワークしないといけないとか、そんな声はあるし、働くといえことになったら、そんなこと言ってられないのも一理あるとは思います。

でもその結果、体や心が壊れたら、何が起きるか、そこが大きいかなと。

 

 

一年ほど前まで、わたしはよく失神をしていました。突然意識がなくなって、ぱったりと。

病気の痛みと自分の体力や病気での神経の疲労を考えずに動いてたのです。

体を酷使していたのですよね。当時はそんな認識皆無でした。

 

いきなり倒れるという恐怖からも、意識があるときに動きたいと思ってました。

痛いのはもう平常化していましたし、激痛でよく動けるなあと検査すれば言われるレベルですし、だからこそ痛みの中でも動ける時は動きたかったんです。

またいつ動けなくなるかわからないとか、そういう気持ちも大きかった。心が疲れてたかと言われたら、痛みの不安とか恐怖とかはあったし、たぶん常に神経を張り詰めていて、きっと疲れていました。勿論無自覚でした。

 

無理をしているときは自覚がないんでしょう。

他の人は倒れないとか、これくらいなら大丈夫とか。

そういうことも重なれば、「自分がどの頻度で、どの程度休息すればよいか」のラインもわからずに動くようになってしまう。

これが「無理をする」ことなんだと思うのです。

 

結果的に無理をしていた自覚さえなかったわたしは、動けばすぐ失神する、を繰り返して、何かするのも難しくて、一時期は寝たきりまでいきました。病気で落ちた体力だとか、自分の限界だとか、全く省みないで行動していたというのも大きな要因です。

 

今はというと殆ど失神することなく動けています。

一人で新幹線に乗って遠出もできますし、以前は必ず付き添いが必要だった通院も一人でこなしますし、毎週のリハビリもきちんと行えてます。一日中ベッドの上ということも殆どないです。

病気が軽くなったかと聞かれたら病気は悪化しています。痛みが酷くなっているのは検査で判明してますし、神経の過敏さだとかの悪化もよく実感しています。体力も他の人たちよりずっとずっと、すくないです。

 

でも、生活を変えました。

主治医に「あなたは無自覚でも無理をしている」と言われたのがきっかけでした。

投薬の治療は変化せずに行い、まずは生活の記録をつけ、次にどれほど自分が動いていて、どういう時に限界がきて失神してたかを把握することからはじめました。自分がどれだけ自分に合わないやり方で努力のつもりの無理をしてたかを認識して、主治医たちと相談しました。

そこからどのタイミングでどれくらい休むかを必死に模索して、今では他の人より早く休憩をとる、長めに休む、横になる、ということを自分に合うように行うことで失神は激減してます。

 

つまりは無茶苦茶なことをすれば、自分にとっての体や心にとって「無理をする」ようなことをすれば、簡単に人は倒れてしまう、のかもしれないと思うのです。

とはいえ、わたしも未だに無理をしてしまうことはありますし、塩梅というのは難しいです。

 

 

努力と頑張ることは大切だけれど、無理をしているかどうかの見極めは必要なのかなって。

 

いやしかし、無理をしているんじゃないかと他人に言われたらおとなしく自分を見直すだけの余裕はもちたいとおもうのでした。