好きなら相手の全てを許せるのか
人間が好きです。前々からそういうことを話して、わたしの周囲の人はわたしが人間が好きなのをよく知っているのですけれど。
そういえば、こういうツイートをしたんです、わたし。
悪いところを指摘するのと、その人間を否定することは全然違う。前者は尊敬や愛情や、その人への思いやりがあるけど、後者は寧ろその人への尊敬も何もない。
— 佑 (@yuimarl_miffy) 2017年9月9日
わたしっていう人間が嫌いならそれはそれでいいし、わたしはわたしでしあわせに生きるからあなたもしあわせに別のところで生きてほしい。わざわざ刃を向けるのはお互いいい気持ちしないと思う。わたしはわたしを大事にする人とわたしが大事にしたい人を大切に生きたい。
— 佑 (@yuimarl_miffy) 2017年9月9日
気に入らない人をとことん貶したり蔑むくらいなら、好きな人たちのためにエネルギー使う方がずっと生きててしあわせだと思うの。
— 佑 (@yuimarl_miffy) 2017年9月9日
ですから今日もわたしはしあわせに生きる方を選ぶんですよ。たのしくて、すてきで、満ち足りた時間を過ごすための選択をするんですよ。ふふーん。
— 佑 (@yuimarl_miffy) 2017年9月9日
だからちょっと、人間が好きで、人との関わりをわたしが好きな中で生きてる考えを書いておこう。
わたしが人間好きなんだなと自覚したのは、病気で学校を休んだときでした。それも、入院ではなく、自宅療養したとき。
中学一年の秋、線維筋痛症を発症して、痛みに悶えて動けず、訳もわからず21日間入院をしたのです。
幼い頃から、よく入退院をしていたのです。喘息や肺炎が重症化しやすい体で、入退院を何度となく繰り返していたから、病棟での暮らし方は勝手がわかっていました。小児科病棟は、年齢に幅がある。赤ちゃんからそのお母さんや医師たちと言った大人までがいる場所ですよ。同じ病室で、生後間もない赤ちゃんから、その付き添いのお母さんまでが一緒に生活しているのです。入院をしているという意味では赤ちゃんから高校生くらいまでがそこにいます。
中学生のわたしにとっては、小学生や幼稚園児の同室の子や、赤ちゃん、高校生くらいまでの人と、1日数回とは言え、関わりがあるのは寂しくなかった。
それぞれつらい病気や症状に悩まされたり、将来のことへの不安はあるにせよ、他愛ない会話をしたりするし、看護師さんや医師との会話は、人との関わりを持たせてくれていて、その入院期間をものすごくさみしいとはしなかった。たまに顔を見せてくれる家族にも救われた。
しかし退院して、うきうきと次の日学校に行ってもすぐに行けなくなりました。
痛みなんてものはわたしの意志とは関係なくひどく襲ってくるのですよね。まあ病気なのでそりゃそうだとも思います。
そして気がついたら1週間2週間…と休むことになりまして。
2週間自宅で療養したところで、人に関わらなくて干からびそうだと思ったのです。家族とは仲良くて、毎日関わりを持っていても、さすがに苦しくなりました。このとき初めて「アァ、私は人間大好きなんだな」と。
高校に入り、病気のために留年して通信制へ転学をするかしないかということになっても「人と会えるかどうか」は重要でした。
「人に会わない選択をしたら確実に干からびる」と本気で思うくらい人間が好きらしい。
でも、好きなら相手の全てを許せるのか。
どんなに、わたしは相手が好きだとかいっても相手を何でもかんでも許せるとかそういうわけでもない。人間が好きであるということは=寛大である、というわけでもない。
相手がいう全てを肯定できるかというわけでもない。傷ついて傷つけてということは、いくら相手が好きだとしても、その部分を「好きだから」なかったことにできるほど人間の心は単純でもないのです。
相手も、わたしにとって何でもかんでも都合いい人間になんてなれっこない。人間ですから。
悪いところもいいところも、人間は時と場合で紙一重なところがあるんだなあと思って生きてきました。
悪いところや嫌なところ、どんなに好きな相手でも目に入ることがあります。
家族でも、友人でも、もちろん恋人でも。
わたしは悪いとことか嫌なところも含めてその人だと思っている。
だから、たまにそういうところに目がいってもそんなことを上回るほどのいいところを、知っていると、それだけのいいところに目を向けていくようにしています。
勿論、人間的に合わない人、自分と相手にとってお互いのためにならない人、そして自分が嫌いな相手もいます。全員に好かれることも、全員を好きになることも、不可能です。絶対に。聖人君子になんてなれません。そういうかた、きっと人間じゃない。ゼッタイ。
だったらそういうあいてがいる時どうするかって話です。
その相手を貶したり蔑んだり、陥れたくなるような気持ちはあったとしても、そこにエネルギーを使うくらいなら、自分を大切にしてくれる、愛してくれる、そして自分が大切に思う相手のためにエネルギーを使いたいと願ってます。
自分と合わない相手、わたしを嫌いな相手や、わたしが嫌いな相手は、無理に関わることなく、わたしはわたしで幸せになりたい。相手も相手でわたしの知らないところで幸せになっててほしい。
お互い不幸になる選択なんて、悲しいし、とっても無駄。そんな選択をして誰も得をしないし誰も満ち足りた気持ちになんてならない。
そんなことを思うのですよね。
まあわたしが今回言いたいことって
「どんなに人間好きでも嫌いな相手も合わない相手もいるし、わたしのことが嫌いな人間もいるのは普通。そういう相手へのエネルギーは自分の大好きな人や大切な人に使いたいしそうやって生きてるとわたしは幸せだなと思ってる」ってことで。
人間好きでも全部許して誰とでも仲良くできるわけではないから、うまい立ち回りと生き方を身に付けたなってことを記しておきたかったってだけです。
毎日楽しくしあわせにー!今日も満ち足りた時間を!って。
悩みも不安も悲しさも生きていればあるし、
人間関係の悩みなんてたくさんあるけれど、
しあわせに生きるために、うまくやっていきたいです。